犬が死んだ。
私がランニングを始めてすぐに知った犬だった。
走り始めたばかりの頃、その犬の前を通ると低く吠えられるので、その家の前を通るのは少しばかり億劫だったのを覚えている。
それがいつの間にか、吠えられなくなった。
そのことに気がついたとき、なんだか認められた気がして嬉しくなった。
その犬は、いかにも昭和らしい、といった造りの家の玄関の、すぐ横に建てられた犬小屋に住んでいた。
初めて見かけた時には既に老犬、といった様子であった。
しかし声は元気で、人に吠える時も威厳が有り、「ヴォウッ」とうるさくない。
それでいて威嚇には充分な吠え方だった。
そしてそれでも家の前から動かなかったり、怪しいと見ると立ち上がって唸る。
今思うと、昔ながらの番犬として、なかなか堂に入ったものだった。
最近はそんな出来た番犬を目にすることなどほとんどない。
吠えるような犬が少なくなったし、吠える犬も近づくと身を縮め、こちらが離れると吠えるような、なんとも頼りない犬ばかりになった。
まあ、それはそうとして。
その老犬とは、当然ほぼ毎日会うのである。
あちらも私を認識してからは吠えるような事はせず、老犬の前を通っても、家に近づくその前から、来るのが私と知っていたかのように体勢も変えないまま、一瞥をくれるだけである。
風格すら漂っていた。
白い、毛足の長い犬だった。
毎日会っていれば愛着も湧く。
それはあちらも同じだったのかも知れない。
いつだったか、酷い台風が来た日が有った。
私は風雨がまだマシな時に会社から走って帰っていた。
そしていつものように犬の前を通った。
するとなんと、いつもはどっしりと落ち着いているあの犬が、甘えるように「くぅん」と私を見て鳴いたのだ。
そう、鳴いた、という表現が近い。
そんな声だった。
珍しさに足を止めてしまった私は、その家主に「犬を中に入れてやってくれ」と言おうと思ったが、やめた。
犬は外にいるものだ。
おそらくそう、家主は思っているのだろう。
犬を飼ったことはない私だが、やはり同じ考えだ。
それがあの犬の情けない顔を見て、下らない同情心から余計な口出しをするところだった。
そのまま走り去ったが、その日は本当に酷い雨だった。
夜、少し犬が心配になった。
もちろん、次の朝から何事もなく、その犬は同じように外に居たが。
そんな老犬も、三年前の夏を境に、日に日に衰えが目立つようになっていった。
まず吠えなくなった。
次に、あまり立たなくなった。
いつからか、私は老犬の前を通るとき「よっ」と声を掛けるようになってたが、目すら動かさない時も多くなっていた。
それがある日、突然犬小屋がブルーシートで更に覆われ、毛布が小屋の上に掛けられる様になった。
犬は小屋の中にいるらしい。
目の前からはブルーシートで見えないので、離れた道路から遠目に覗く事しか出来なかった。
様子は分からなかったが、生きてはいるらしい。
しかし数週間後、ブルーシートが取り払われて、家主が犬小屋を撤去していた。
「そんなに早く壊さなくても」と少し悲しかった。
次の日、そこが掘り起こされた跡が有った。
そして花が供えられていた。
その数日後には整地され、今度は地に花が植えられていた。
あの日からその場所は整地されたままだし、花は何度も植え替えられはしたものの、常に何かが咲き続けている。
あの老犬は、番犬として最後まではしっかりと生きた。
そう思う。
家主もあの老犬を最後まで番犬として扱った。
それがとても良いことに思えるのだ。
私は今日もあの家の前を走るが、何かの花が今日も咲いているんだろう。
冬に咲く花があんなに沢山あるとは、この歳まで知らなかったが。